ツン——とした部屋の寒さで目が覚めた。土曜日、昼の1時半。一瞬「寝すぎたな」と思ったが、とくに慌てる用事もない。
ベッドの脇には、ヨレた靴下が1足。ゆっくりと上半身を起こし、布団に飲まれたであろうもう片方の靴下を、手探りで見つける。
子どもの頃から何かとだらしない私を見て、「ちゃんとしなさい」と母はよく怒った。今の状況を見たら、母は盛大にあきれるだろうか。
ごめんね、お母さん。でも、大人にだって、「ちゃんとしたくない日」はある。私にとっては、今日がそうだ。
こんな日は、無理に自分を取り繕うこともしない。社会人3年目。「ちゃんとしたくない日」の過ごし方は、もう心得ている。行き先はたった一つ。
化粧もそこそこに、私は家を出た。
「ちゃんとしたくない日」の拠りどころ『菓酒店jira』
目的地は、東山線「池下」駅から徒歩5分の場所にある。飲食店が立ち並ぶ「錦通」をまっすぐ西へ進むと、右手に見えてくるのは、どこか懐かしい横引きの木製扉。ガラス窓には、手書きで『菓酒店jira』と書かれている。
「いらっしゃいませ」
時刻は、午後3時を回ったところ。開店したばかりのお店に、まだお客さんはいない。この歳になっても、「一番乗り」にはドキドキしてしまう。
「また、来ちゃいました」
小さく会釈をしながら、カウンターへと向かう。店主であるお姉さんは、にっこりと微笑みながら、今日は何にしますかと尋ねてきた。
近くにあった手書きのメニューに目を通す。悩んだあげく、お姉さんの意見を参考に、季節のフルールをあしらったスイーツとカクテルを一つずつ頼むことに。
ふと、店内を見回す。このお店にはカウンター席しかない。最初は少し衝撃的だったが、今となってはテーブル席のない「こじんまりさ」に安心する。
おしゃれな雰囲気ではあるが、気取っている感じが一切ない。店主の飾らない人の良さが、お店に滲み出ているようだ。
コンセプトは、「店主が通いたいお店」
カラ、カラン——グラスに入った氷が、小気味いい音を奏でる。カウンター特有の人と人との近さが、一人暮らしに慣れた私にはちょうどいい。
以前、仕事終わりにふらっと立ち寄ったとき、カウンター越しのお姉さんと話が弾んだことを思い出した。
小学生の頃からお菓子づくりが好きだったと話す彼女は、飲食業界一筋。パン屋、レストラン、カフェなどで働きながら、大好きな「食」と向き合ってきた。
そんな彼女が『菓酒店jira』を立ち上げようと思ったのは、前職のカフェで店長の仕事の面白さに気付いたからだと言う。
「ある程度の決定権を持って、自分の好きなようにお店をつくる楽しさに気づいたんです。きっと、自分のお店を持ったら、もっと楽しいんだろうなって」
念願が叶ったのは、2019年の7月。一人でお店を切り盛りする苦労もあるが、大好きな「お菓子」と「お酒」に囲まれた空間は、お姉さんにとって特別な場所に変わりない。
「コンセプトは、『自分が通いたいお店』です。もちろん、集客や売上もちゃんと考えないとダメですけどね。その前に、店主である私自身が“常連客”になりたいと思えるお店かどうかが大切かなって。そこにいるだけでホッとして、楽しい気持ちになれる場所が理想です」
この話を聞いて以来、私は『菓酒店jira』の虜になった。
あたらしい贅沢のかたち、「スイーツ」×「お酒」
「お待たせしました」
過去に思いを馳せている間に、目の前に置かれたグラス。透き通った赤がきれいな、「赤ワインのスパイスキティ」(税抜700円)だ。
親指と人差し指でグラスの柄を持ち、ゆっくりと全体を回す。そのまま一口飲むと、ほのかな酸味と甘味が口いっぱいに広がり、上品なアルコールの香りがスッと鼻へ抜けた。
「休日の昼間からお酒を飲む」という行為が生み出す、ちょっとした背徳感が、最高のおつまみになる。
「スイーツも、どうぞ」
続いて運ばれてきたのは、旬のマスカットがあしらわれた「ゴルゴンゾーラのチーズケーキ」(税抜700円)。
近くにあったフォークで生地を丁寧にすくうと、気持ちいいほどにしっとりしている。添えられたキャラメルソースと粉砂糖をつけ、口へと運んだ。
チーズのしっかるりとした酸味、キャラメルの優しい甘さ。なめらかな口当たりに、心がうっとりする。極めつけは、マスカット。濃厚なチーズを、自然な甘味で引き立たせる。
見事な調和に、お酒も進む。
「このスイーツには、日本酒も合いますよ」
カウンター越しに、お姉さんの声が聞こえる。ここでは、スイーツごとに相性のいいお酒を教えてくれるのだ。
来るたびに、スイーツ×お酒の新しいコンビネーションに出会える楽しさは、このお店を何度も訪れたくなる理由の一つでもある。
今、この瞬間にある“食”と“会話”を楽しむ
お酒の効果もあってか、全身から無駄な力が抜けていくのを感じる。
「なんだか、とっても落ち着きます」
独り言でもおかしくないほどのボリュームで呟いた声を、お姉さんは逃さない。視線は、作業中の手に向けられたまま。キッチンから放たれる音が、恰好のBGMにすら聞こえる。
「そう言ってもらえて、何よりです。お客さんには、ラフに過ごしてほしいですから。ふらっと行こうかな、くらいのテンションで立ち寄ってもらうのが嬉しい。そして、お店に来たら何よりも、今この瞬間にある“食”や“会話”を楽しんでほしいなって思います」
それは、めまぐるしい速さでトレンドが入れ替わる「飲食業界」に、子どもの頃から憧れ、長く携わってきた彼女の切実な願いとして響いた。
今日はここに来て正解だったな、と心の中で思う。
グラスを傾ける、中のライムが揺れる。昼間からカウンターで一人お酒を飲む私を見たら、母はなんと言うだろうか。盛大にため息をつくかもしれない。
ごめんね、お母さん。でも、やっぱり、大人にだって「ちゃんとしたくない日」はある。
そして、そんな日を受け入れてくれる場所が、私にはちゃんとある。
菓酒店 jira
営業時間:15:00〜23:00(22:00L.O)
定休日:不定休(公式Instagramよりご確認ください)
※メニュー・営業時間などは公開時点での情報となります。最新の情報は各店舗のHPやSNSにてご確認ください。