2019年7月10日まで東京都美術館で開催されていた過去最大級と称されるクリムト展。日本では過去最多となる25点以上の油彩画や、ウィーン分離派会館の壁画の再現展示など見どころたっぷりの展覧会は大盛況のうちに閉幕しました。会期中の入場者数は57万7828人に登り、日本でのクリムト人気を証明しました。
この「クリムト展 ウィーンと日本1900」が、ついに2019年7月23日から豊田市美術館で開幕。館内は、当時クリムトらが建てた「分離派会館」を思わせる白を基調とした空間となっています。そんなファン待望のクリムト展の魅力をお伝えします。
目次
国内外で圧倒的な人気を誇るグスタフ・クリムトの魅力
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大の猫好きだったクリムト。有名な肖像写真でも猫を抱いており、今回の展覧会のグッズにもなっています。(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
新たな絵画表現を試みたウィーンモダニズムの旗手
グスタフ・クリムト(1862~1918年)は、激動の19世紀末、オーストリアのウィーンで活躍した画家。父は金工師でした。クリムトは7人兄弟で、生涯を通じて家族を非常に大切にしていたのは有名な話です。
クリムトはウィーンの工芸美術学校で素描や絵画を学び、弟のエルンスト、同級生のマッチュとともに「芸術家カンパニー」と名乗り活動していました。同時代、モネやゴッホなど印象派の画家たちが活躍したパリに対して、音楽の街ウィーンは保守的な側面が強く、芸術家カンパニーも劇場の天井画や緞帳制作のようなアカデミックでクラシカルな表現が求められる仕事で名を成していきます。
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グスタフ・クリムト《髭の男の肖像》1986年 個人蔵/フランツ・マッチュ《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》1889年 中環美術館/グスタフ・クリムト《イザベラ・デステ(ティツィアーノの模写)》1884年 ペレシュ国立博物館/グスタフ・クリムト《紫色のスカーフの婦人》1895年 ウィーン美術史美術館、絵画館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
しかし、エルンストの早世をきっかけに、クリムトとマッチュはだんだんと個別に依頼を受けるようになり、芸術面でも別々の方向へ進みます。マッチュが宮廷の人気画家となっていった一方、クリムトは新しい時代に合わせた、新しい芸術表現を求めて活動します。
所属していた画壇の古い体質にも不満を持ち、35歳の時、ついに「ウィーン分離派」を結成。クリムトをリーダーとして集まった若い芸術家の中にはフランスで教育を受けた者が多く、旧態依然としたウィーンの芸術シーンに国際的な最先端芸術を広めようと活動しました。
ウィーン分離派は、自分たちで機関誌を発行したほか、展覧会も主催。展覧会のポスターはメンバーが持ち回りでデザインを担当しており、毎回趣向を凝らしたものでした。クリムトが手がけた分離派展第一回目のポスターは、いきなり検閲局から横やりが入り、クリムト作品のスキャンダル第一号になりました。
また、分離派結成の翌年には自分たち専用の展示施設である「ウィーン分離派会館」が完成。建物には「時代にはその時代にふさわしい芸術を、芸術には自由を」の文字が刻まれています。ここで美術市場から独立した数多くの「分離派展」が開催されました。
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ゲルハルト・シュトッカー《分離派会館模型(1902年の第14回ウィーン分離派展[ベートーヴェン展]開催時)》2011年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
こうした分離派の活動を通して、クリムトは自身の作品でも積極的に新しいことに挑戦し続けます。メッセージ性のある詩(文字)と絵画を組み合わせて配置したり、絵画や壁画に金箔を用いるなど、絵画、工芸、建築といったあらゆる芸術を組み合わせた作品を生み出しました。金箔の使用や、写実的な人物に対して背景を平面的に描くなどの手法は、日本など異国の文化の研究から着想を得たとも言われます。芸術のミックス、国や文化のミックスなど、異なるものどうしを絶妙に組み合わせるスタイリスト的手腕を持っていたのがクリムトの特徴であり魅力です。
そしてもう一つ特筆すべきことは、クリムトはとても”モテた”ということ。彼は生涯独身でしたが、複数の女性と関係があり、婚外子も14名はいたと言われています。彼のアトリエには常に複数の女性がモデルとして出入りしており、そのほとんどと愛人関係にあったとか。「自画像はない。私は自分という人物には関心がない。それよりも他の人間、女性に関心がある」と自ら語っているように、クリムト作品は登場人物のほとんどが女性です。女性を愛したクリムトだからこそ、官能性と妖艶さを持ち観るものを魅了する女性美を描くことができたのでしょう。
クリムト没後100年を記念して開催される待望の展覧会
全8章からなる会場はクリムトの画家人生そのもの
今回の展覧会は、クリムトの没後100年、及び日本オーストリア友好150周年の記念展。クリムト作品を多数保有するベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館の全面協力を得て、名品約120点が一挙公開されています。
本展の一番の魅力は、初来日の《女の三世代》を含むこの貴重な25点以上の油彩画を一つの会場で鑑賞できること。クリムト作品は近代画家としては数が少ないうえに、所蔵している各美術館にとっては常設展示の目玉となる価値の高い作品ばかり。どの美術館もなかなか貸し出したがらないため、所蔵場所以外でお目にかかれる機会が少ないのです。
また、作品保存の面から輸送に耐えられなかったり、個人蔵のため何十年も一般に公開されていない作品もあったりします。ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館館長は「こうした理由から本展は、オーストリア国外でクリムトのもっとも傑出した絵画の多くを一堂に鑑賞できる、素晴らしくも稀少な機会」と語っています。
全長34メートルの壁画《ベートーヴェン・フリーズ》の原寸大複製も見逃せません。本物の壁画は動かすことができませんが、1984年に制作された精巧な原寸大複製を間近で観ることができます。また、絵画だけでなく、クリムト自身の写真やスケッチブックなどの展示を通じて、彼の生い立ちから晩年までの人生を深く知ることができる内容になっています。
以下、全8章の内容をご紹介。
第1章 クリムトとその家族
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姪のへレーネを描いた《へレーネ・クリムトの肖像》や、彫金師であるクリムトの弟の作品を観ることができます(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
第1章では、クリムト自身の写真に加え、弟たちの写真や作品が展示されています。クリムトは彼らとともに工芸美術学校での教育を受けていました。初期のクリムトにとって、二人の弟たちは家族としても、一緒に活動する芸術家としても大切な存在でした。末弟のゲオルクは彫金師として、のちに《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》や《ユディトⅠ》などクリムト作品の額縁を制作したことでも知られます。
父や弟のエルンストが若くして亡くなったこと、母や姉がうつ病をわずらっていたことは、クリムトに大きな影響を与えました。感受性豊かだったクリムトはしばしば憂鬱に苦しみ、早死にや母のように正気を失うことへの恐怖を抱えて生きていたと言います。これらの出来事が独特の死生観や思考を生み、作品にも色濃く反映されていきます。
この家族無くしてクリムト芸術は生まれなかったわけです。
第2章 修行時代と劇場装飾
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同級生だったマッチュとクリムトは学校の課題でこの2つの絵を描いたと考えられている(右から)グスタフ・クリムト《レース襟をつけた少女の肖像》1880年 個人蔵/フランツ・マッチュ《レース襟をつけた少女の肖像》1880年 個人蔵(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
クリムトは14歳の時にウィーンの工芸美術学校に入学。図面教師養成課程を修了した後、さらに装飾絵画の上級課程に進みました。弟のエルンスト、同級生のマッチュと三人で「芸術家カンパニー」を結成。その時代の美術界の巨匠でありクリムトたちの指導的立場にもあったハンス・マカルトの様式の影響を受け、地方の劇場装飾の仕事などで活躍しました。
第2章では、初期のアカデミックな作風のクリムト作品に加え、マッチュやエルンストの習作、マカルトの作品なども展示されています。また、美術史美術館の壁面装飾のための構図である《イタリア古典美術》や《16世紀フィレンツェ》は、絵画と建築物を結びつけた様式を取っており、ウィーン分離派が目指した「総合芸術」への展開を予感させるものです。東京会場と豊田会場で展示作品が異なっているので、ここは見逃せないポイントです。
第3章 私生活
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グスタフ・クリムト《葉叢の前の少女》1898年 クリムト財団(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
第3章ではクリムトを取り巻く女性たちについて知ることができます。クリムトは生涯独身で、母と姉妹と共に暮らし続けました。しかし数多くの女性と関係を持ち、子どもは少なくとも14人いたと言われています。クリムトは子どもたちとその母親たちに金銭的な支援はしても、一緒に生活することはしませんでした。
そんなクリムトがもっとも大切に想っていたとされるのが、早世した弟エルンストの妻の妹であるエミーリエ・フレーゲ。なぜ彼女とクリムトが生涯結婚しなかったのかは謎に包まれていますが、発見された手紙から、一時期深い中にあったことがわかってきたとか。今回展示されている手紙や二人の写真からも、クリムトの彼女への想いが伝わってきます。本展覧会の図録にはクリムトがエミーリエに宛てた7通の手紙の和訳が掲載されています。興味のある人はぜひご覧ください。
第4章 ウィーンと日本 1900
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(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
1873年、日本が初めて公式参加したウィーン万国博覧会では、日本を代表する美術品や日用品が展示されただけでなく、日本庭園や茶室まで建てられました。クリムトの友人の中にも日本と接点を持つ人は多く、分離派メンバーのオルリクが日本に滞在して日本の版画や蒔絵の技術を学んだことも。クリムトが金箔を使用するようになったのも、オルリクの漆塗作品の影響と言われています。
クリムトは日本美術の要素を様々な形で作品に取り入れていきますが、最初の例とされているうちの一つが、今回展示されている《17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像》の額縁。クリムトによって、梅の花などの日本風の花の絵が描かれています。画像では伝わりきらない上品な質感をぜひ感じてもらいたい作品です。
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(右から)グスタフ・クリムト《17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像》1891年 個人蔵/ハンス・マカルト《装飾的な花束》1884年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館/ユリウス・ヴェクトル・ベルガー《アトリエ》1902年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
以下の2点も、日本の影響を受けている作品。《赤子(ゆりかご)》の華やかな色使いは、武士や遊女の着物姿を描いた錦絵の影響を受け、《女ともだちⅠ(姉妹たち)》は縦長の画面に2人の女性を配置する構図や、右上の装飾パターン、左下の市松模様が浮世絵に着想を得たと考えられています。
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(左から)グスタフ・クリムト《赤子(ゆりかご)》1917年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー/グスタフ・クリムト《女ともだちⅠ(姉妹たち)》1907年 クリムト財団(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
クリムトは甲冑や着物などの日本美術コレクションをささやかながら所有していました。そのほとんどは失われてしまったのですが、現存する数少ない収集品の数点が展示されていますので、そちらもこの章の見どころです。
第5章 ウィーン分離派
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(右から)グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》の「詩」の擬人像のための習作 1901年 コレクション・グラブマン/グスタフ・クリムト《うずくまる二人の女性》(《水蛇Ⅱ》のための習作) 1905-07年頃 ウィーン応用美術大学(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
第5章は、ウィーン分離派時代の油彩画はもちろんのこと、素描や分離派展のポスター、クリムトが愛用していた赤いスケッチブックなどが展示されており、見応えたっぷりの章となっています。モダンなデザインとして今見ても新しさを感じる分離派展のポスターは、東京会場と豊田会場でラインナップが異なります。また、赤いスケッチブックは現存する3冊のスケッチブックのうちの一つ。本展の目玉である《ユディトⅠ》や《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》の素描が描かれたかなり重要な存在なので、こちらも必見です。
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言わずと知れたクリムトの代表作。「クリムトと言えば」で思い浮かぶ全ての要素を兼ね備えた作品。神々しさと妖艶さ、金箔の輝き、額縁の美しさは現物だからこその感動。 グスタフ・クリムト《ユディトⅠ》1901年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
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詩(文字)と絵を組み合わせた斬新なデザイン。真実を表す裸婦と鏡は、私たち鑑賞者と対峙している。グスタフ・クリムト《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》1899年 オーストリア演劇博物館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
圧巻なのはやはり《ベートーヴェン・フリーズ》。現地に行かずにこの空間を体験できる機会は、もう無いかもしれません。コの字型の壁画が配された空間の真ん中には分離派会館の模型があり、実際の分離派会館を想像しながら鑑賞することができます。全長34メートルの複製は1メートル50センチの高さまで持ち上げられています。現地の壁画はもっと高い位置にあるので、本展覧会の方が鑑賞には適しているんだとか。圧巻の迫力はそのままに、細部までしっかりと観ることができる絶妙な配置となっています!
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グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ(原寸大複製)》1984年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(オリジナルは1901-02年)(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
第6章 風景画
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(右から)グスタフ・クリムト《森の奥》1881/82 飛騨高山美術館/グスタフ・クリムト《雨後(鶏のいるザンクトアガータの庭)》1898年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
クリムトは学生時代を除き、30代半ばまで1点も風景画を描いていません。36歳の夏に、フレーゲ家と共にオーストリア北部のハルシュタット湖郊外に訪れ休暇を過ごした際に、風景画の制作を始めました。フランス印象派を思わせる部分はありながら、色の使い方や光の取り入れ方など、オーストリアの風景画にはなかった独自の様式を早々に完成させたと言われています。
クリムトにとって風景画の制作は、田舎にいるときにだけ描く、仕事とのバランスを取るための時間でもありました。第5章までとガラッと変わったどこかリラックスした空気感を、本章では感じられると思います。
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(左から)グスタフ・クリムト《アッター湖畔のカンマー城III》1909/1910年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館/グスタフ・クリムト《丘の見える庭の風景》1916年 カム・コレクション財団(ツーク美術館)(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
第7章 肖像画
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(右から)オットー・フリードリヒ《エルザ・ガラフレ》1908年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館/マックス・クルツヴァイル《ミラ・バウアー》1907年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
クリムトの肖像画は、ほとんどが女性を描いたもの。家庭でも母と姉妹に囲まれて過ごし、アトリエにもたくさんのモデルたちがクリムトのために滞在していました。常に女性に囲まれて生きていたこと、そして女性に強く関心を持っていたことは、クリムトが女性を描く画家として名を成したことに深く関係しています。
クリムトの肖像画に登場する上流階級の女性たちは、全く嫌味な感じがしないのが不思議です。女性たちは富裕層の余裕を感じさせながらもどこか皆憂いを帯びた表情で、観る者はその表情に引き込まれます。
クリムトが50歳頃以降の作品は後期の肖像画とされ、東洋の美術品のモティーフが使われたり、東洋的な色彩の豊かさを持った作品が多いのが特徴です。
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プリマフェージ夫妻はクリムトの重要な支援者で、本作はクリムトがオイゲニアのクリスマスプレゼントとして描いたもの。グスタフ・クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》1913/1914年 豊田市美術館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
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クリムトが亡くなった時に未完成のままアトリエに残されていた作品。構図や下地は完成しているが細かな仕上げには至っていない。グスタフ・クリムト《白い服の女》1917-1918年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
第8章 生命の円環
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(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
父や弟、3人目の息子の死を通して独自の死生観を持つようになったクリムト。第8章では、1894年に依頼され完成に1907年までを要したウィーン大学講堂の天井画のうち、《医学》《哲学》のプリントを観ることができます。クリムトはこの2つに《法学》も合わせた3つの学部画を担当しましたが、1903年の分離派展で作品が披露されるとその過激で独創的な表現に大騒動が巻き起こりました。最終的にクリムトは学部画の依頼を辞退し絵を引き取ると共に、前金として受け取っていた報酬も返金。3作品は残念ながら戦争によって全てドイツ兵に焼却され現存しません。
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(左2つ)グスタフ・クリムト《医学》《哲学》1904年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館/(右)参考 グスタフ・クリムト《法学》1903-07年(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
最後に紹介するのは、初来日となる油彩画《女の三世代》。本作はクリムト「黄金様式」の傑作の一つとされ、先の《医学》や《法学》と同じく生命の円環をテーマに描かれた作品です。特定のモデルではなく、人間の3つの段階を象徴的に描いています。3人の人物と色彩豊かな背景模様の組み合わせが、単なる人物画ではない幻想的で普遍的な印象を与えています。過去のクリムト展でもお目見えしなかった貴重な作品です。ぜひ間近で見てください。
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グスタフ・クリムト《女の三世代》1905年 ローマ国立近代美術館(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
入手必須!クリムト展オリジナルグッズ
色彩豊かなクリムト作品だからこその充実のラインナップ
クリムト展を堪能した後に待っているのが、本展覧会のオリジナルグッズショップです。クリムトの「黄金様式」や色彩豊かな作品をイメージさせるグッズは、クリムト作品に詳しくない人でも思わず手に取ってしまう魅力的なラインナップ。
《ユディトⅠ》などの出展作品をモチーフにした「デミタスカップとソーサー」や、クリムトの油彩画を紹介した本展の余韻を楽しめるようにと作られた全11種類のダブルクリアファイルなど、クリムト展を家に帰ってからも思い出させてくれる素敵なグッズばかり。
![過去最大級!「クリムト展 ウィーンと日本1900」がついに豊田市美術館へ - fullsizeoutput 9d 過去最大級!「クリムト展 ウィーンと日本1900」がついに豊田市美術館へ - fullsizeoutput 9d](https://nagoya.identity.city/wp-content/uploads/2019/07/fullsizeoutput_9d.jpeg)
デミタスカップ&ソーサー 2,300円(税抜き)(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
金箔スパークリングワインや金箔をまぶした贅沢な粒が入ったこんぺいとうなど、クリムト作品に着想を得たアイテムもあります。ぜひ本展覧会の鑑賞の思い出に選んでみてはいかがでしょうか。
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クリムト金の付箋 600円(税抜き)(※画像は特別に撮影許可を得たものです)
いかがでしたか。これだけのクリムト作品が集結する機会は本当に貴重。2019年8月4日までは大学生も無料なのでさらにおススメです。
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建築好きにもファンが多い豊田市美術館
また、豊田市美術館という建物自体も美術館建築で名高い谷口吉生氏による設計で、アート好きだけでなく建築好きからも人気の建物。10月までと会期はまだ長いですが、後半は混雑が予想されます。ぜひ、週末のお出かけに、お早めに足を運んでみてください。
豊田市美術館
会期:2019年7月23日〜10月14日
休館日:月曜日(ただし8月12日、9月16日、9月23日、10月14日は開館)
開館時間:午前10時~午後5時30分(入場は午後5時まで)
観覧料:一般 1,600円[1,400円]/大学生 1,300円[1,100円]/高校生以下無料
※[ ]は、前売券、20名以上の団体料金
※大学生は7月23日(火)から8月4日(日)まで無料
※障がい者手帳をお持ちの方(介添者1名)、豊田市内在住の75歳以上は無料(要証明)。その他、観覧料の減免及び割引等については、豊田市美術館「観覧料」のページをご確認ください。
画像引用元:外観写真のみ豊田市美術館より支給
参考文献:クリムト展図録